近くて遠いお隣「中国」との三十年と少しを振り返ってみる。

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30年前と今の日中をつなぐ物語として、2015年晩夏に短編映画『温時泉光』を制作しました。
同年11月に那須国際映画祭での上映も終わり、リクルート賞をいただきました。感謝!
次回、東京で上映していただける機会があるそうです。詳細が決まりましたら、また。

今回は、その映画の背景になる「近くて遠いお隣中国との三十年と少し」を振り返ってみたいと思います。

主人公の幸治と李雲は紹興で1884年に出会い、一年後の1985年に再会を約束します。
それから30年。
私達の日々の生活の中でも、大小様々な出来事があり、そして二国間を取り巻く環境も、少しずつ、でも気がつけばずいぶん遠くまで流れてきている気がします。十年単位でその時代にどんなことがあったのか、どんな流れを通って今にたどり着いているのか、サブカルなどの流行文化を中心に、恣意的かつ個人的に振り返ってみたいと思います。
(※各所からの資料を参考に年譜を再構築していますが、不十分なところや一部正確ではないところもありかもしれません。お気づきのところがあれば、教えてください)

1970年代

日中の新しい時代の幕開け。日中関係が前向きに進みだした時代。
扉が開かれ、お互いを新鮮な気持ちで知るところから始まる。

日中国交正常化(1972年)、文化大革命の終結(1976年)、中国の経済改革開始(1978年)、日中平和友好条約締結(1979年)と怒涛の時代の流れの中で、中国では高倉健が、日本ではブルース・リーがが大ブーム(※)となる。
(※香港のブルース・リー主演映画『燃えよドラゴン』が、1974年洋画部門で興行収入第2位。)

70年代の出来事ピックアップ:

1970年 大阪万博開催。 三島由紀夫割腹自殺。
1972年9月 周恩来総理の招待で田中角栄が訪中して歴史的な日中首脳会談が実現。
日中共同声明を発表し、日中の国交が回復する。
1972年には・・・中国より上野動物園にパンダ2頭贈呈される(カンカンとランラン)
浅間山荘事件、沖縄復帰など
1976年 周恩来、毛沢東が死去
1966年から続いていた中国の文化大革命が終結。(終結宣言は1977年)。
1977年 日本にカラオケブーム到来。日本人の平均寿命が世界一に
1978年8月 日中平和友好条約締結
10月 「日中平和友好条約」の発効を祝うイベントとして、中国の主要大都市で「日本映画週」が開催され、高倉健さん主演の『君よ憤怒の河を渉れ』(中国語訳名:追捕)、『サンダカン八番娼館 望郷』『キタキツネ物語』が文革後初めての日本映画として上映された。内に熱い思いを秘めた寡黙な男を演じた高倉健が、中国で絶大な支持を得る。同世代のスター・中野良子や栗原小巻なども中国で人気に。
12月 中国の経済改革開始
1979年から「一人っ子政策」(计划生育政策)が導入される。

1980年代

日本は80年代後半からバブル景気へ。
竹の子族が最盛期、アイドル、なめ猫、おしん、ファミコン、ビックリマンチョコなどが次々ヒット。
香港スターのジャッキー・チェンが少年たちのあこがれの的に。
(※ジャッキー・チェン:1979年に『トラック野郎・熱風5000キロ』との2本立てで公開された『ドランクモンキー 酔拳』が大ヒット。『ロードショー』誌の「好きな俳優」投票において6年間連続1位を獲得。)

一方中国も経済改革開放が進み、コンテンツを通じて日本を知る機会が増える。
テレビドラマ「赤い疑惑」(『血疑』)シリーズが放送になり、山口百恵が中国でも人気に。理想的な日本人女性像として、中国で山口百恵の名前をあげる年配者は多い。
テレビアニメは『鉄腕アトム』、『一休さん』、『花の子ルンルン』などが放送される。

日中の交流は開かれつつあったが、個人での日本ビザの取得はまだまだ難しい時代だった。
中国からの個人旅行での日本ビザが比較的取りやすくなったのは2010年近くになってから。

映画の中にも出てきた「海外文通」。

メールがまだない80年代には文通は身近な交流方法だった。雑誌にもペンフレンド(この言葉自体がもう懐かしいですが)を募集する文通欄があった。

海外文通の流行
海外文通の流行
世界を一人で旅する「バックパッカー」へのあこがれ

1986年にバックパッカーにとってのバイブルともいえる『深夜特急』(著・沢木耕太郎)の1巻・2巻が出版され、若者たちの海外個人旅行へのあこがれを牽引。
旅行作家の下川裕治、蔵前仁一なども、お金がなくてもじっくり一人で世界を旅をすることで様々な出会いを体験する、新しい旅の形を次々と本に記す。
『温時泉光』の中では、幸治は一人バックパックを担いで中国を旅していたが、これは中国語を独学で勉強してきた幸治にとって、初めての海外旅行だった。

短編映画『温時泉光』より
短編映画『温時泉光』より
中国国産映画では「第五世代」が台頭

文革後、最初に映画制作を開始した第五世代と呼ばれる新世代の監督たちが次々と作品を発表。第五世代の多くは、1982年に北京電影学院を卒業している。
『黄色い大地』(1984年)(陳凱歌監督、張芸謀撮影)、『子供たちの王様』(1987年、陳凱歌)、『紅いコーリャン』(1988年、張芸謀監督)等。

中国で大人気だった「テレサ・テン」の歌が放送禁止に

1980年代初めには、中国国内にもコピーされたカセットテープが出まわり、人気を博していたが、中国共産党政府は、1983年頃にテレサの歌を放送禁止となる。
1986年、改革開放路線を進める中国でテレサの歌が事実上解禁され、中国での人気が再燃。

1980年代の出来事ピックアップ:

1982年 中国は革開放路線を選択
1985年 中国青年代表団100名来日 (代表:胡錦濤中国共産主義青年団第一書記)
1987年 日本で携帯電話サービス開始。オウム真理教設立。
1989年 昭和から平成へ。 消費税スタート。 ベルリンの壁崩壊。
1989年 天安門(Tiananmen Square)事件

1990年代

日本のバブル崩壊、中国の経済成長とインフレの加速。
しかし90年代までは、日中関係は追い風だったといえるのではないか。

80年代~90年代に中国で幼少期を過ごした世代は、テレビでドラマやアニメなど日常的に日本に触れる機会があり、大人になってからもこの時期に見た日本のドラマやアニメを懐かしむ声は多い。

ドラマ:
『東京ラブストーリー』、『101回目のプロポーズ』、『金田一少年の事件簿』、『神様、もう少しだけ』、『ひとつ屋根の下』など。
アニメ:
『ドラえもん』、『聖闘士星矢』、『スラムダンク』、『セーラームーン』、『Dr.スランプアラレちゃん』、『名探偵コナン』など。

一方日本でも、『恋する惑星』、『天使の涙』、『ラブソング』などの香港映画や、陳凱歌監督作品の『さらば、わが愛/覇王別姫』(1994年日本公開)がスマッシュヒット。

中国からの日本留学ブーム。

この時期の中国からの留学生は、日中の経済差からバイトに明け暮れる苦学生のイメージが強い。90年代初頭に日本のバブルが弾けても、まだまだ日本はお金が儲かる国というイメージが強く、日本でアルバイトで稼いで中国の田舎に仕送りをしていた学生や研修生も少なくなかった。
90年代最後に日中でテレビ放送されたドキュメンタリー番組『我们的留学生活一在日本的日子(私たちの留学生活~日本での日々~)でも、妻子を中国において日本で進学を目指してアルバイトに明け暮れる苦学生の姿が赤裸々に描かれていて、中国で社会現象となるほどの大反響を呼んだ。

90年代後半に中国留学した時にあった今は懐かしのアイテムとして・・・
「BP機」
ポケベル。使っていたのは数字だけが表示されるもので、手持ちの暗号表のような紙と照らし合わせながら、送られてきたメッセージや相手の苗字を確認した。当時は売店などの店先に電話が置かれていて、たしか1回5角で市内通話が使えた。ただし、このBP機、オペレーターセンターに電話をかけ、中国語のメッセージを伝えなければならず、留学したばかりの中国語初心者にはかなりの難関だった。

「打口碟」
90年代終わりは、音楽を聞くアイテムがテープからCDに移行している時期だった。
ただし海外CDの輸入は厳しく制限されていたため、打口碟と呼ばれるCDのケースに改札鋏のようなもので穴を開けられた海外CDが、廃棄物として入ってきていて、裏路地(北京だったら五道口の路地裏)で売られていた。穴の開け方が上手ければ、ケースだけに穴が開いていて中のCDは無事なのだが、開け方が悪いと割れていて再生ができないものも・・・。

「VCD」
中国ではあまりビデオデッキが一般には普及せず、DVDに移行する前は、みんなVCD(ビデオCD)を見ていた。DVDよりもかなり映像が荒く、映画だと大体VCD二枚になる。
90年代は日本ドラマやアニメの海賊版VCDが多数出回っていた。テレビ放送を録画しているものが多く、ニュース速報なども入っていた。またかなり怪しい中国語字幕がついていたものも。
VCDデッキは再生のみで録画はできなかった。

90年代の出来事ピックアップ:

1991年6月、小林武史・小倉博和・今野多久郎と共にゲリラライブを兼ねて中国・北京へと渡り、天安門広場にてボブ・ディランの「風に吹かれて」などを演奏。この模様は後に桑田が出演した筑紫哲也 NEWS23などで放送された。
1992年 サザンオールスターズの北京コンサート(首都体育館にて)
1992年には… 天皇皇后両陛下が初の訪中、自衛隊の海外派遣など。
1995年 阪神淡路大震災
日本で『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始
90年代後半から、日本ではルーズソックスやコギャルが流行。

2000年以降~

中国での反日への揺れ戻しが年を追うごとに厳しくなってゆく。(反日教育、抗日ドラマの急増、各地での反日デモ、日本コンテンツの輸入制限など。)
特に2005年の反日デモ以来、抗日ドラマの本数は増加している。
一方で、(台湾で呼ばれ始めた名称ではあるが)哈日族(日本ファン)が中国大陸にも広がる。
日本のアニメやビジュアル系になりきる「コスプレーヤー」が発生し、「COSPLAY」という日本から輸入された新語が定着。さらに日本で『電車男』(2005年)のテレビドラマが放送された頃から、中国でも「宅男」(オタク)という存在が認知され始める。
2008年頃から、中国では海外アニメの輸入・放送が厳しく制限されるようになるが(2008年以降に正規に輸入された日本アニメは『テニスの王子様』、劇場版『名探偵コナン』、『ドラえもん』など、ごく限られた作品のみ)、ネットの普及により日本ドラマやアニメをリアルタイムで視聴する若者が増加。
近年、中国のネットで放映されているアニメは『進撃の巨人』、『ワンピース』など正規版権を授権した作品も増えている。しかし今後は中国当局によるネット放映の規制が厳しくなるとも予想されている。
「萌」、「売萌(かわいこぶる)」、「壁咚(壁ドン)」、「顔値(顔面偏差値)」などの日本カルチャーからの言葉が中国でも流行語になっている。

一方日本では・・・
2000年代に入って、日本でも中国語ブーム(中国語を学んでおけば将来損はない)というような流れがあったが、近年では尖閣諸島の問題などから対中感情は急速に冷え込んでいる。

日本旅行はツアー旅行から爆買いへ

中国からの日本旅行ブームの火付け役は、2008年12月に公開された『非诚勿扰』(邦題『狙った恋の落とし方。』、馮小剛監督)。ロケ地だった北海道に多くの中国人旅行客が訪れる。
そして2009年頃から徐々に日本旅行ビザの規制が緩和され、団体旅行から個人旅行へという流れに。(日本も80年代の海外旅行団体ツアーブームから、個人旅行へと移行していったのに似ています)
さらにはここ数年の円安が後押しとなり、日本旅行へのリピーターも増えている。
中国で一般的に流通している銀行カードシステム「銀聯」の看板を、日本の各地で見かけるようになりました。
幸治と美雲が出会った三十年前には、日本で中国旅行者の「爆買い」がブームとなっているなんて、想像もしなかったことですよね。

2000年以降の出来事ピックアップ:

2002年 FIFAワールドカップ日韓開催
10月 GLAYが北京コンサートを開催(北京工人体育場にて)
2004年 大相撲中国公演(北京・上海)
2005年4月 北京や上海で反日デモ。日本大使館や日本料理店などに投石被害
2008年 北京オリンピック開催
嵐、浜崎あゆみが次々と上海でコンサート開催
2010年 上海万博開催
尖閣諸島をめぐる領有権問題
急激な経済成長により2010年には中国はドル換算名目GDPでは世界第2位に。
2011年 SMAP初の海外公演が北京で開催(北京工人体育館)
2011年3月 東日本大震災
2012年 尖閣諸島抗議デモ。2005年の規模を超える最大規模のデモに。
(2005年、2012年とともに上海にいましたが、個人的には2005年の時のほうが町が浮足立っていたようで、2012年の時のほうが上海市民は冷静だったように感じました)
2013年 中国PM2.5が問題化

ここ数年、中国における日本アーティストによる大型コンサートは減少しているが、アニソンライブや初音ミクのコンサートが開催されたり、AKB48の姉妹グループで上海を拠点とするSNH48の活躍など、J-POPのファン層はコアに根付いているともいえる。

『温時泉光』の制作を通して30年という時間を考えて・・・

30年という時間は、振り返ってみるとあっという間のようで、30年前には思いもよならいところに世界も、個人も、流れ着いていたりするものだと思います。
一方で、ふとした出会いや、何気なく過ごした一日が、巡り巡って何十年か後の自分につながっていたりすることもあります。
これから30年後のことは想像もつかないけれど、そこにつながる今を大切にしたいという気持ちを短編映画『温時泉光』に託しました。

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神奈川県生まれ。牛心オーナー。 青山学院大学文学部卒業。北京電影学院留学を経て、2002年より、中国・上海のテレビ制作会社に勤務し、日本文化や流行を現地で発信する仕事にたずさわる。

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