コラム第19回:「夢をこの手で」-望月智代さん-

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20代のうちに、海外生活をしたい!

小さい頃からずっと憧れを持っていたという智代さんは、28歳の誕生日に思い立ち、上海へ来ることを決めた。

「日本では、食品メーカーの営業から始まり、IT事務やWeb制作会社など、いろいろなことをしていました。思い立ってからは会社を辞め、朝から晩までバイトに明け暮れ、それと同時に中国語学校に通い、簿記の資格を取るための勉強もしていました。目的のために、という思いがあったのでまったく辛くありませんでした」
静岡出身の智代さんが当時住んでいたのは大阪。元々、いろいろなところで生活したいという思いはあったという。「大阪は、ものづくりの町なんです。当時から中国とのつながりもあったし、自分が旅行で中国へ行ったこともあって、生活していて自然と中国というキーワードが出てきたんだと思います」

2005年9月から2学期間、上海財経大学へ留学した。簿記を勉強していて、提携校だったこと、簿記を通じて中国人と交流できたらという思いから、この大学に決めた。
「片道切符を買って、船で来ました。上海に生活を移す決意表明のようなつもりで、片道を買ったんです。学校が始まってからはELC(当時上海財経大学内にあった語学センター)でバイトをさせてもらっていました。この頃、中国語はあまりできませんでしたが、世界をまたにかける女になる!と毎日頑張っていました」
留学期間が終わり、2006年7月、日系の物流会社に就職した。ELCにいる頃からWeb制作の仕事が来ていたので、昼はOLとして、夜はWebデザイナーとして仕事をこなした。
「人材派遣会社で物流の営業の仕事を見つけ、副業でWeb制作をしていました。上海に来たときからいつか起業したいという思いがあり、そのために人脈を作ったり上海の会社で働く経験も必要だと思ったんです」
就職して10ヶ月、智代さんは会社を辞めた。
「Webの受注が副業では抱えられないほどになったのと、物流でやっていくためには専門的な知識が必要とされるところまで来たのが理由です。自分の目標のためには、まずはフリーランスになって、できるところまでやってみようと思いました」

2007年5月1日、ELCと合作する形で、フリーのWebデザイナーとして仕事を始めた。日本でWeb制作をしていた経験もあり、ELCからの人脈もすでにある智代さんには、満を持してのスタートだった。
「お客さんがいて、技術がある。今ならローリスクで始められるタイミングだと思いました。実際、上海でWeb技術を持った日本人はまだ価値があるんです。私は静岡県出身なので静岡の企業に歓迎されたこともあるし、大規模な会社と仕事をするチャンスがあるのも、上海だからだと思います。もちろん仕事だけでなく、そこで知り合った人と生活の話しをしたり悩みを聞いたりと、交流する機会も増えました」

目標に向かって、ダイナミックに進んできた智代さんだが、今のところ、日本へ帰国する予定はないという。
「いろんなところで、いろんな人に出会って、人は優しいということを知りたいんです。私は上海で、いろんな人に助けられてここまで来ました。日本人だけでなく、中国人の気を使わないところや気さくなところ、暖かさに触れてたくさんのことを学んできました。そうやって世界中の人の暖かさに触れたいんです。そして、私がWeb制作をしているのは、どこからでも見られるし、世界につながることができるからです。世界とのつながりを感じながら、大好きなものづくりをしていきたいと思っています」

中国語の次は、英語をきちんと学んでみたいという智代さんの夢は、中国を乗り越え、世界へと広がっていく。そんな目標に対する強さと行動力が、智代さんの笑顔をより魅力的に見せてくれるのかもしれない。

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宮城県生まれ。 国際基督教大学教養学部卒業。2004年より上海戯劇学院に留学。 その後、上海にて映像制作の仕事に関わる。現在は東京で、コーディネーターときどきウェブ、イベント制作を担当しています。

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